素地への遡行 平井 亮一
目次
眼のまえにある紙 6
空きから「きわ」へ 12
「サブスタンス」という指標 20
色料と観念と 35
還元と滞留と 46
ながいあいだ北村周一の作品をみてきた観客のひとりとして、それらにふれるまえにあえて遠まわりしようとおもう。かれの歩みにあるいは照応するかもしれないことからはじめたい。
いま、美術とされようとされまいと離散現象のにぎわいは、そのことでおもいもよらない場面へとひとびとの眼差しをみちびいているようにみえる。それはそれとして、そのような場面でみいだすことじたいがせんじつめるところ、なんらかの先行認識の代替あるいは自己意識の反趨・再認にすぎないまま、それをめぐることばもまた現象の後づけとして離散してゆくおもむきで、つねづね空疎なおもいだけがのこる。
そのまえに当の眼差し、そのさきがもろもろ一般ではなく、それぞれ特定の媒体でのいとなみであって、そこにこそ眼差しと事物もろもろとのかかわりもうまれるのであれば、さまざまなことばが消費されて離散する事象といっても、いまふれた条件をぬきにしてそこに眼差しをそそぐいわれはあるのかないのか。だいいちそれは可能なのだろうか。そのことが素朴に問われなければ、ことがらは先だつもろもろの認識の読みとりでつきてしまうにちがいない。それならなおのこと、まずはつねに古くしてあたらしい媒体、画布にあたってことがらをつきつめなおし、それとのかかわりをいっそうたしかなものにするにしくはない。
近年の北村のきりつめてゆく画布仕事は、観客にそうしたおもいへとさそわずにはいない。いったいいま、いかなる理路とそれは照応するものであろうか。
ALUMATIKSTUDIO
Translated by Yumiko Tomizawa
Photographed by Jun Morioka
S&T PHOTO
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